|
サー・マイケル・アンドリュー・アンガス・コスタ(Sir Michael Andrew Angus Costa 1808年2月14日 - 1884年4月29日)は、イタリアで生まれ、イングランドで成功した指揮者、作曲家。 == 生涯 == コスタはナポリでミケーレ・アンドレア・アニエッロ・コスタ(Michele Andrea Agniello Costa)として生まれた。ナポリで父から手ほどきを受けた彼はナポリ音楽院に入学、さらにその後ニコロ・アントニオ・ジンガレッリに師事した。 若年期から生涯を通じて、コスタはオペラ、交響曲、カンタータなどに膨大な数の作品を作曲したが、それらはいずれも長く忘れられたままとなっている。1829年、彼はイザヤ書の韻文に基づくジンガレッリの『''Cantata Sacra''』を指揮するためバーミンガムを訪れた。しかしながら、音楽祭の実行委員会は彼が指揮台に上がることを認めず、かわりに彼はテノール独唱者として舞台に登場した。しかし、これは失敗に終わった。こうしたことがあったにもかかわらず、彼はイングランドに定住することを決意する。 1830年、コスタはロンドンに移りヒズ・マジェスティーズ・シアターで働き始める。彼はこの劇場の指揮者として真に影響力を発揮したが、1847年に支配人のと決裂して劇場を後にすると、ロイヤル・オペラ・ハウスへと転身した。彼の練習、正確性そして合奏に対する配慮は当時としては斬新なもので、マイアベーアやヴェルディからも称賛されていた。こうした事実にもかかわらず、コスタが純正主義者と呼ばれることはなかった。彼がヘンデルのオラトリオ『メサイア』の管弦楽法を変更し、シンバルを追加するなどしていたからである。 コスタはイギリスに帰化し、1869年にナイトに叙された。1846年から1854年まではロイヤル・フィルハーモニック協会、1848年からはセイクリッド・ハーモニック協会、1849年から1882年にかけてはの指揮者を務めた。また、ブラッドフォード(1853年)、ヘンデル音楽祭(1857年-1880年)、リーズ音楽祭(1874年-1880年)でも指揮を行っている。彼はイングランドで幾人かの弟子を育てており、門下生にはエマ・アルベルタッツィなどがいる。 1884年、コスタはホヴに没し、に埋葬された。彼が住んだロンドンのピムリコ、エクレストン・クスエアの59には彼を記念するブルー・プラークが掲げられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マイケル・コスタ (指揮者)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|